闘病記

心筋梗塞になって入院してからの病院関連の記録日記。そんな闘ってません。

闘病記2 2023.2.1~2.23 金沢 カテーテルアブレーション

前のつづき
主治医いわく、
エコー検査やレントゲンで診るに、10年前の手術の跡が心臓内の電気の動きを邪魔して、心拍に変なリズムを与えてる。だからこれを焼くと心拍の動きが安定してよくなるはず。ただし、その設備は当病院にはない。
だから、金沢にある病院に転院してもらたい。前にそこで勤務していたからすぐに連絡はつくからと。まあ、1週間くらいかなあと。

うん、いや、話はわかるけど退院とか一時帰宅はないんですか?と尋ねると、「ムリだね」と即答。まあそれもわかるんだけど。

しかし、前年11月の入院と同じだ。少し良くなったかと思ったらどんどん悪くなっていく感じ。
1月も下旬になると尿を取る管はとれているが、室内の自由しかない。毎日来るリハビリの先生が来たときだけフロアを歩く。ほんの100mあるくだけだが正直ちょっとだるい。やっぱり体調はあまり良くなってない。
こっそり自販機に買いにいったりはしてるし、洗面台まで行くことができるから実質飲水制限はなくなっていたが、よくしたもので以前の制限であった2000ml以上飲むと咳が酷くなる。飲んだ瞬間に咳き込みでもどすこともある。何回かシーツを替えてもらった。
たびたび食事も残すようになってきた。
それでも喉が渇く。

ますます横になって寝ることはできない。鼻水や痰が止まらない。血も混じってます。看護師によるとそれは治ってる傾向にあるということらしいのですが。つまりはずっと十分に呼吸ができないということです。後頭部、うなじが焼けるように熱くなり眠れずにいるのに意識が途切れそうになる。
水分を取り、鼻水を生産する機械に慣れ果てている。

そういうことなので無呼吸改善マシンをつけるのは止めてます。余計に呼吸できずに喉が渇き鼻水で鼻がつまっているからです。
そんななのに体重だわ検温だのでぼんやりしたりうつらうつらしたところを
看護師(ときおり医者)に起こされる。死ぬわ。

だから、金のことやら仕事復帰やらいろいろ不安が高まってたけど、それよりも金沢に行かないとヤバいなという不安のほうが上回っていた。

ーーー

そして当日2/1。転院ということになる。一時的に富山の病院から金沢の病院に行く。そして一時帰宅も退院もない。
つまりどういうことかというと、救急車で移動。金沢まで高速道路に乗ってサイレンを鳴らしながら移動。
「こんなことはじめてだ」
と救急車スタッフも言ってたからかなり異例なことなんだろう。
おれは身体を起こされて点滴をつけたまま移動。娘2人も同行。2人は金沢に着くなりそのまま駅から帰宅。どないやねんと思うがそういう決まりだそうだ。
しみじみ身内がいてよかった。まあまあ良好な関係を保持しておいてよかった。他人のことはわからないが、コロナでお見舞いお断りな現状でも家族仲を伺わせるエピソードはあるもんなあ。
そして身内がいて不味かったのは、点滴には小便が出やすい利尿剤が入っていることで、30分おきにトイレにいってたのに小1時間高速移動で小便をしたい以外考えることができないという煩悶っぷりを娘に晒し続けていたことだね。
高速のSAにでも一時的に止まってもらおうかずっと考え続けていた。
もちろん病院に着くなりトイレを切望。かなりギリギリでセーフ。自分の膀胱の強さに助けられた。

ーーー

トイレの後、待ち構えられた医者に会う前にコロナの検査。
今はどうなっているのかわからんけども、ガッチリとコロナ対策がされていたので入院時には鼻の穴に煙突掃除のような長い棒についた綿棒を入れてこすられる検査をされる。金沢に着いてもされて、再び富山の病院に戻るころにもされる。それ以上の苦痛な思いは山のようにされているのだけど、これも苦痛ではある。

ーーー

大勢いる医者を前にひと通りの検査をされて部屋に通される。
長期の入院でいうとはじめて別の病院だ。
これがけっこうちがうところが多い。
4人部屋だがそれぞれのスペースが広いのでとても快適。覆ってあるカーテンの防音効果が高いからか同室の患者と看護師との話し声が聞こえない。
なにより、
無料Wi-Fiが完備してある。これが最高に快適だった。読書用に持っていたタブレットが映像をみる機械に代わり、各種サブスク映像を見倒すことができた。ネットフリックス、ディズニー+、DMM TVをみたおしていた。
ただ、現在、あのころみた作品のサムネイルをみると快適を上回ってのいろいろあったこと(主に苦痛や心配)を思い出して嫌な気分にはなる。

病院の方針もずいぶんちがう。着くなり点滴を替えられ、おしっこを出す管も差し込まれて、また身動きできないのか?とげっそりしてたら、おしっこをためる袋を点滴台の下に設置して部屋のトイレには点滴台をひきずって行って大便はしてくださいといわれる。
そして次の日には、各フロアにある交流スペースへの行き来が可となる。
来るときに「飲水量の制限はありますか?」と尋ねたら、「え?そんなもんないない」といわれたので交流スペースの自販機で飲み放題になるし、そこでは飲用の水と氷も汲み放題だった。お茶もそうだった。
そしてさらには、どんどん移動範囲が増えて、最終的には、入院してる6階から地下1階にあるリハビリ室や2階にあるレントゲンなどは1人で移動しろといわれる。
ここはなんでも1人でできる分にはさせるって方針なのよ。
だから2階にある別の飲み物がある自販機や前の病院の10倍くらい広い売店や、ついに行きはしなかったけど1階にあるタリーズや食堂も行き放題だったのですね。
しかも、売店も自販機もカードにチャージして使うとそれ1枚で使えるものなのでどこにもカード1枚で出かけられる。
おれは心拍数を計る機械を入れて首からぶら下げる巾着袋にカード1枚とスマホを入れてでかけていた。
その日の予定は朝に看護師が伝えるしプリントアウトしたものを置いていくので、時間に合わせて自分で調整できるのがよい。
朝に体重や血圧もセルフで計ることになっていて、看護師は朝に現れるときと、食事を持ってくるとき、あとレントゲンなどに来いという案内があった知らせのほか来ない。

富山の看護師のように脱走する家畜がいないかチェックみたいなことはない。
良し悪しはあるが。
だって、カテーテルアブレーションにまた太ももの付け根から管を通すために陰毛を剃る。それをセルフでやらせるんだもんな。そしてちゃんと剃れたかという検査には来る。なら剃ってくれよってのもまたちがうけど。

あと金沢の看護師は厳重に患者にマスク着用を義務付けていたな。カーテンの向こうからみて、マスクを着けてなかった「マスクお願いします」とビジネスな感じでいってた。ま、全てにおいて合理的なビジネス感はあった。
ただ、これは確実とは言わないけど、採血や点滴、おしっこを入れる管などの処置の上手さが桁違いだった。そのわりに謙遜してたり、どことなく全体的におっとりしている。金沢の気風ってそうなのかな?と思ったり。
(先生は周期的に北陸3県をぐるぐる変わってるらしいけど看護師は地元の人が多いそうで)

ーーー

2/1に着き(誕生日だ)、2/2にはカテーテルアブレーションが施行される。よくやってる検査入院時のカテーテル手術の流れにあってちょっと大規模なものでした。
長時間でしたが、かなり強めの麻酔のおかげでぼんやりしているうちに終了。
次の日には移動可になっていたがそんなに小便などは心配しなかった。

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そのころ1番心配だったこと。
おれは1級身体障害者でいわゆる「手帳持ち」。
いろいろと特典はあるけど1番大きいのは医療費の免除。
ところが、これってそれぞれの県でだけ通用するらしいのね。
富山県から石川県に移動したからには普通に請求が来ると、入院して2日めくらいに会計のひとに告げられる。それで一気に心配が募る。
まあ、いろいろな技を駆使したけどそれでも最終的にかなりな請求はきた。ここは食費や入院のときにとられる「雑費」が富山の入院に比べて高いのでさらに。

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食事は入院食で減塩食のわりにフライとかカレーなんかも出てバリエーションに富んでいてなおかつ、3食全て3種類くらいのおかずからセレクトすることができた。
ただしまずい。そして水は飲用の水でも泣きそうなほど不味い。入院の間ずっとそれが辛かった。それより辛いこともたくさんあったが、3食のことだったからじわじわと辛かった。あ、カレーは辛くなかった。辛いものにとにかく飢えていた。

富山の病院はがんばってたんだなあとしみじみ。けっこうお高めな配膳マシンで持ってきてたみたいで、熱い食べ物は熱く、冷たいものは冷たかった。料理自体のバリエーションは少なくて、文字通りのしょーもないものは多かったがでも味付けは確かだった。フルーツも上等のものではあったな。

まー、どっちもできれば2度と食べたくないから。懐かしさはない。

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1週間という約束だったが、例によって雲行きがおかしくなっていく。
カテーテルアブレーションのおかげで心拍数が安定し、リズムも一定になっているのだけど、どうも本人(おれのことだ)の体調が安定してこない。そのうち本人(おれのことだ)にもじんわりと伝わってきた。

とくにリハビリの先生だ。毎日自転車こがせてなおかつその負荷を徐々に上げていくってトレーニングをしている。

「今って70代のひとの平均なんですよねー」

どうもポータブルの心拍数を計る機械にはそう出ている。たかだか15分ほどの自転車漕ぎでゼエゼエいってるのでおれもなんとなくそうじゃないかなとは思っていた。
でも、ここに長くいたらダメだ。おもにお金の面で。
だが、ついに病室からリハビリの徒歩の間に小休止をとらないとどうにもこうにもならなくなってきた。通りかかった別の階の看護師に心配されるほどゼエゼエしてた。

と、いつの間にか、3週間目に差し掛かる。

そんな中でいて、退院(というか再びの転院)がアナウンスされる。体感は入院する前よりはマシになったがいい調子ではない。ただ「こんなもんだろう』とは思っていた。

これを書いている「今」の感覚で思い返すと死にかけていたのでした。良くもなっていなかった。

 

リハビリの先生に、特殊な装置の自転車を漕ぐことでかなり細かいデータが出るのでそれでパスしたら転院になるでしょうと。

入院しててよかったですね。これ通院でこのテストを受けたらどえらい請求がくるんですよ。

先生はこのフレーズが大好きみたいでトータルで10回くらいいってたな。

 

結局2月にそのテストを受けることはなかったのです。

 

つづきます


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